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1989年 高校三年

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 詳しい話は全く分からなかった。  高校の後輩にせがまれて、5日前から一緒に行っていたスキー旅行のバスの中で、やたらと彼の話をしていたのは虫の知らせだったのかも知れない。  早朝に東京へ戻り、夕方になっていつものようにたむろしていたバイク屋に顔を出すと、彼が死んだことを店の若いスタッフに告げられた。  冗談にしか聞こえなかったが、それでも、嘘ではなく紛れもない事実であることも同時に理解した。  テレビドラマや小説でよくあるようなシチュエーション。  しかし、これは紛れもなく現実だった。  その日の夜、共通の知り合い2名と、彼の実家へ向かった。  既に荼毘に付された後で、小さな骨壺に収められた遺骨と、何年も前のモノクロ写真の遺影しかなかった。  御母堂は、憔悴しきっており、そして小さかった。  モノクロ写真に写る彼は、その時の自分よりも明らかに幼かった。  焼香して頭を下げると、もうやることがなくなっていた。  引き留めようとする御母堂に頭を下げ、一緒に来ていた知り合いとも分れると、たちまち腹の底から湧き上がってくる冷え切った得体の知れない感情と、こみ上げてくる涙で視界が歪んだ。  多分、激しく泣いたのはこの時が最期だった。  嗚咽する度、彼との日々がフラッシュバックしてくる。  涙が枯れるまで、かなりの時間が掛かった。  大切なものを失うとどうなるのかを、この時初めて思い知った。  事故の内容は、ありきたりの内容だった。  猛スピードで飛ばす彼のRZ250の目の前で、反対車線を走っていた車が安全確認を怠りUターン。  減速することも避けることも出来ず、車の側面に激しく衝突した彼は、その場から数十メートル以上飛ばされ、アスファルトに全身を叩きつけられた。  即死だったらしい。  数か月前に手に入れていた、黒い初期型RZ250での事故だった。  あんなに運転が上手かったのに。  自分が乗っているバイクそのものが、いとも簡単に死ぬことの出来る乗り物であることを再認識した。  それからの日々は、人が死ぬとどうなるのかが良く解った。 「やめろよ、思い出したくもない」 「事故って死んだんだって?いい気味だぜ」 「ろくでもないヤツだったしな、いなくなって清々するよ」  生きている時は調子のいい相槌をうち、迎合していた奴ほど、決まって故人をひどく罵倒した。  本人を目の前にしたら決...

1988年 オン・ザ・ストリート

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  バイク(CBR250R)を手に入れてからは、これまで見て来た景色が、何もかも違って見えた。  モノクロームな世界が一気に色づいた、という表現が正しいかも知れない。  変な言い方だが、世の中の全ての基準が、バイク乗りか?否か?だけの世界になったような錯覚。  17歳のリアリティーなんてそんなものだ。  学校には真面目に通った。  遅刻も欠席もない。  ただ目立たぬよう、成績優秀、品行方正を心がけた。  学校にバレてしまえば、それまでの苦労が水泡に帰してしまうからだ。(ちなみに、通っていた高校はアルバイトは勿論のこと、自動二輪免許の取得も禁止していた)  知らない世界に足を踏み入れることが増えた。  夜の路上で、地元では目立つ同世代の連中と顔見知りになった。  それまでの同級生たちとは縁のない、新しく出会った者たちだった。  自分のことはあまりしゃべらなかった。  しゃべらなかった、というよりも語るような内容がなかった。  これまで何かに守られている感覚があったのは、地元の見知った場所や人としか対峙してこなかったからだろう。  CBR250Rと共に一度路上に躍り出れば、常に己の判断のみが頼りの、常に危険と隣り合わせで走っている状態になる。  転べばもちろん痛いし、事故を起こせば尚更だ。  不思議と、感覚が研ぎ澄まされていくような気さえしていた。  実際、その性格も気性も、研ぎ澄まされていった。  真面目に高校2年生をやっている「日常」と、夜の路上に躍り出る「非日常」。  これからどこへ向かうのだろうかという不安と、生き方も目標も定まらない日々に苛立つ、不安定な精神状態のまま、自身に寄り添うバイクだけを頼りに、スピードに魅せられて溺れていった。  出会ったキッカケなんて所詮は偶然の産物に過ぎないのだが、そこで出会った同年代の少年たちは、誰も彼もが似たような精神状態だったに違いない。  俺の方が速い、俺の方が強い、俺の方がイカしている!  大切なものなど、そのくらいのものだった。  全員が駆け出し、全員が半人前、全員が大人ぶった子供だった。  煙草も酒も、ほぼ100%が嗜んでいた。  時代も緩かったから、未成年者の飲酒や喫煙にも、今では考えられないほど寛容だったようにも思う。  ジッポーライターの炎、ショートホープの紫煙、缶コーヒー片手に朝まで己の夢を語りあう日...

1987年夏、高校一年生にとっては大きな問題があった

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  現実に立ちはだかるハードルの存在を強く意識したのは、多分16歳頃だったと思う。  受験や成績という類のものではなく、欲しいものを手に入れるために必要な金を稼ぎ出すための労働時間がそれだった。  冷静に考えればわかるはずだ。  高校一年生、16歳。  やっとアルバイトが公に可能となる最低年齢。  18歳未満のアルバイトは少なく、また驚くほど低い時給。  毎月楽しみにしていたバイク雑誌を飾る、数多の新車の価格には非現実的な金額が提示されている。  高校生のアルバイトごときで、新車など買えるはずがないのだ。  そもそも、中型自動二輪免許を取得する教習所代ですら10万円近い。(調べてみたら現在では17万円以上もするではないか!)  その年の夏休み前の試験休みから、隣町の環状線沿いにあったダンボール工場でのアルバイトを始めた。  一日中働いて、夏休みの殆どを費やしたにもかかわらず、手に入ったアルバイト代は総額で14万円にも満たなかった。  絶望以外の何物でもない。  教習所代とヘルメットとグローブ代で高一の夏のアルバイト代は消えた。  冬の終わり頃になってから、毎日のように自転車で30分ほど掛けて豊島園の先にあった教習所へ通った。(免許を取得する件でも家庭内でひと悶着あったのだが、これをクリアするのに半年ほど掛かった)  教習車はヤマハのFZ400Kという真っ赤な400ccで、大柄な車体とブレーキの効き方の良く解らない、乗りづらいオートバイだった。  教習所の練習コースで2度ほど派手に転んだ。  急制動で急ブレーキをかけた際、フロントブレーキをロックさせて即転倒した。  あとはスラロームで車体を倒し過ぎて転んだ。  自転車なら上手くやれることが、オートバイではできない。  悔しかったが、出来ないものは出来ない。  それでも何とか教習を終え、春休み中には卒業試験に合格した。  学校を休むわけにはいかなかったから、中型自動二輪免許を取得するのにはそれから少し時間が掛かった。  免許は夏前の試験休みに合わせて江東にあった運転免許センターで、学科試験を受けてやっと手に入れた。  それでもオートバイを買うことなんて、まだ先の話になりそうだった。  少ない時間をやりくりして、少しづつアルバイトで小銭を稼ぐ日々。  中学時代の同級生や、高校の同級生たちが、次々と新型のNSRや、...

やはり出会うべくして出会う

  長く珈琲屋をやっていると、色々な人と出会う。  多分、普通に会社員をやっていたら、きっと出会うことのなかった人たちだ。  つい先日も、ハイティーンの頃に『こんなコが実在したらいいのに…』と、さんざん夢想してきた理想像を、そのまま具現化したかのような若い娘さんが店にやってきた。  想像してきた通りの趣味嗜好(オールドのライカを取り出したところで予感は的中)で、好きな車は90年代までのスポーツカーで、ポルシェ911が一番好きだという発言に、テンションも爆上がりしたのだった。  今年で50歳になろうとしている自身が、既に時代遅れな古臭いオヤジになっている自覚はあるが、リアルタイムで「それ」を知っていて、実際にそれを体験してきたことが、若い彼ら彼女らにとってはおとぎ話にも似た、憧れの世界そのものであることを知った。  スマートフォンも、インターネットもない。  バブル期の只中で、我々よりも少し年上の1960年代生まれの先輩諸氏はきっといい想いをしていたはずだ。  我々1970年代生まれといえば、じきにその恩恵を享受できるだあろうという淡い期待をどこか抱きつつも、実際には膨大にある時間をただ持て余していただけの、中途半端な存在でしかなかった。  行き場のないフラストレーションは、スピードというスリルに酔いしれることでごまかし続けていたようにも思う。  その最中に大怪我をしたり、時には命を落とす者すらいた。  きっと何もしなければ、そこで終わることはなかったのだけれど、あの時、あの場所で走ることは、彼らには必要だったのだと信じたい。  そして、あの場所に立っていた自身も、そこにいることが必要だったのだと思う。  時は流れ、気が付けば平成も終わって令和となった現在、あの頃には笑って許されていたようなことの殆どが禁忌となり、ひどく息苦しい世の中になったが、世界中を席巻する新型コロナウィルスの猛威に晒されている現実は、あの頃の自分にしてみたら完全なファンタジーだ。  生きづらい世の中も、何とか生き抜いていく。  辛くとも死ぬな。  いずれ、出会うべくして人は出会う。