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ホンダ BEAT

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 今でも手放したことを心から後悔している。  1991年に初めて手に入れた、発売されたばかりの車。  旧軽660規格、2シーターミッドシップのオープンカー。  BEATは、今も名車として熱狂的なファンに愛されている。  発売当時は何処も彼処もバブル景気にうかれ、良く企画が通ったなと思うような、頭のおかしい製品を次々と市場投入していて、軽自動車も2シーターのスポーツカーや、オープンカーなどが続々と作り出されていた。  そんな中、ホンダのBEATは特別な存在だった。  スズキのカプチーノも人気があったけど、あちらはタルガトップで気軽にオープンにはできなかったし、ターボ搭載でやり過ぎ感があった。  BEATはNAエンジンだったし、なによりも可愛らしいスタイルで愛嬌があった。  この車でどこへでも出かけ、何度も車中泊もして、色々な景色を見た。  とても小さな車で、最高の相棒だった。  青春時代の大半、BEATに乗っている時だけは、オートバイに乗っているときの様にスピードに命を懸けることなどなく、朗らかな気持ちのまま、速度と共に徐々に上がるオーディオのボリュームと、子気味良い操作感に酔いしれていた。  時速140km/hでリミッターが掛かるけれど、法定速度内であっても充分に楽しい車だった。  妻との初デートの時はわざわざオープンにして、桜の花びらの舞う並木道をゆっくり走った。  この前、BEATと走るかつての日々の夢を見た。  妻と結婚し、家族が出来てシビックへと乗り換える際にBEATを下取りに出した時の気持ちは、大事な家族と分れるようなとても悲しい想いがあった。  もう二度と戻らない日々、何もなかったけれど、ただそこに車があるというだけで、例え一人であっても何かがこれから始まるような期待に満ち溢れていた日々は、遠い昔しのことになってしまった。  あの頃たしかに存在していた日々を思い出すたびに、BEATを街で見かけるたびに、胸の奥が熱くなるのは何故だろう?  BEATは自分にとって、大切な思い出と共にあるクルマだった。

500SS MACHⅢ(H1B)マッハスリー

 カワサキの大排気量2ストローク3気筒エンジン。  マッハ(マッパ)と聞けば、全員がひれ伏すというくらい伝説的なオートバイだった。  とはいえ、1980年代後半には、ほぼ見かけることの出来ない幻のオートバイになっていた。  当時の感覚では10年落ちなどほぼ現存していないくらいのもので、5年前のオートバイが旧車という感覚なのだ。(1983年のCBX400Fなんて完全に旧車だった)  毎年のようにニューモデルをリリースしているような、イカレた時代だったのだ。  ただし、そんな時代でもマッハは伝説化していて、稀に見かけることが出来れば羨望の眼差しを向けられるオートバイだった。  実際、パワーバンドに入ったときの加速はキチガイじみていて、初期のエグリタンクの500SSが最も凶暴だと言われていた。  3速までウィリーするだの、次の信号までに止まれるかだの、危ないオートバイというイメージが強かったが、実際に乗ってみると思った通り危なかった。(笑)  正直言えば、「よく発売の許可が下りたな」というくらいの出来の悪さと言ってもいい。  実際、発売当時に何人も死んだため、新たに中型免許制度が出来たというのは本当の話なのだそうだ。  さて、750RSの登場前に、500SSをスケールアップさせた750SSというモデルが1971年に登場するのと同時に、マッハシリーズには350ccをボアダウンさせた250ccが追加され、250cc、350cc、500cc、750ccと、4つの排気量のファミリーが揃った。  レインボーラインと称される、新たなタンクのデザインを採用した1971年のマイナーチェンジモデルの中で、唯一テールカウルを装備しなかったのが、500SSの1971年モデル、所謂H1B。  このモデルに何故か強く心を惹かれ、買うならH1Bと決めていた。  後日、実際に乗った際の衝撃はとても筆舌に尽くしがたいもので、加速は神がかっていて、実際ストリートのシグナルGPでのスタートダッシュでは負ける気がしないほど速かった。  ただ、エグリタンク時代のマッハよりは止まるけれど、お世辞にも初期のディスクブレーキの制動能力は効くとは言えない、相変わらず危険な代物で、改造するならまずブレーキ含めた足回りだなとおぼろげに改造計画を立てていた。  2ストロークトリプルは、他に250SS、350SS、750SS、...

ゼッツー(カワサキ 750 RS)

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 1973年2月にリリースされたと聞いている。  何せ当時はまだ2歳にもなっていない。  世界初の4ストロークDOHC4気筒750cc、北米市場向けの900 SUPER FOUR(Z1)の日本国内仕様として750RS(Z2)通称ゼッツーは生まれ、爆発的な大ヒットとなったそうだ。  ナナハンといえば、ホンダのCB750Fourが代名詞だが、後発カワサキ750RSも同じ。  1980年代後半には、もはや伝説的なオートバイとなっていた。  当時連載されていた少年漫画誌の作品(あいつとララバイ)の影響もあったし、後の漫画作品でも度々登場する印象深い登場人物の乗るオートバイだったせいもあるが、何よりそのデザインと存在感が群を抜いて格好良かったのだ。  いつ頃手に入れたのかの記憶はあやふやなのだが、限定解除をして最初に手に入れたスズキGSX-R750の次に手に入れたものだったので、たぶん大学生の頃(20歳前後)だったと思う。  根城にしていたバイクショップのお客さんの海外転勤が決まり、欲しがっている人に格安で譲るという話に飛びついた。  いくらだったのかの詳細は思い出せないが、あり得ないくらい格安だったことだけはうっすらと覚えている。(込々で30万円以下だったと思う)  当時でも吸排気系や足回りを改造されたものが多かったが、珍しいフルノーマル車だったので、そのまま無改造で乗ることにした。    ゼッツーにたどり着くまでに、かなりの数の旧車に乗っていたのだが、このオートバイが名車と呼ばれる理由が、実際に所有し乗ってみて良く解った。  1970年代のオートバイとしてはという但し書きがつくが、最もバランスが良い(走る、曲がる、止まる、乗りやすい)からなのだ。  近い乗り味となると、後続となったスズキのGS750や、更に後に登場するホンダのCB750Fがある。  これらも名車と言われている理由は同じ。  ただ750RSは、これらの中で最も古く、最初に登場したからこその名声だったというわけだ。  最終的にエンジンが壊れて数年不動車のままだったが、直る見込みがないので売ってしまったことがとても悔やまれる。  そのまま持っておけば何とか修理することが出来て、再び乗ることも出来ただろう。  しかし、時は戻らない。  かなり長く乗っていたと思っていたが、それでも5年乗ったか乗らないかだった。  ...

限定解除

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 件のゼファーには、相当の大金を掛けた。  速くしたかったのと、自分だけのオリジナルの仕様にしたかったからだ。  大学の長期休みの度、レストランや居酒屋、車のワックスコーティングやガソリンスタンドでのアルバイトに明け暮れ、バイト代が入ると、マフラーやらカムシャフトやらキャブレターやら、タイヤやら、ブレーキやらを交換していじり倒す。  最初にやったことと言えば、転倒した際に頭突きしてブチ割ってしまったメーター類を、出たばかりの91年式3型から採用された砲弾型メーターに取り替えたことだった。  ゼファーは憧れていたZ系の末裔だったから、その姿に少しでも近づけたかったのかもしれない。  空冷並列4気筒の2バルブエンジンは、レスポンスが悪く、回転が上がるのが若干かったるかったけれども、いい音がした。  しかし、400ccをいくらチューニングしても大排気量のオートバイと同じにはならなかった。  また、ゼファーに乗っている間、不運としか言いようがないが何度も事故に遭っていた。  覚えているだけで最初の峠の単独事故から数えても、3回は大きな事故に遭った。  業を煮やした親から、ついにバイクを売却するよう命令され、10代の青春のすべてを費やしたといっても過言ではなかったゼファーを、2年足らずで手放すこととなってしまった。  一時期バイクに乗れなかった時期があった。  事故に遭うのは不運でしかないが、親に対して自身のライディングテクニックに問題がないことを何とか証明したかった。  そのために何が必要なのかを考えると、やはり限定解除をする必要があった。  そして、ナナハンにも乗りたい。  馴染みのバイク屋の店内には、乗ってみたい大型のオートバイがゴロゴロしていた。  中には、20年以上前(1991年当時)の旧車もある。  当時の大型オートバイを乗るための免許証を取得する方法は、警察の免許試験場で受ける『限定解除』しか手段がなかった。  大学2年になってから、本格的に府中の試験場通いが始まった。  高校生の頃に、暇つぶしにジムカーナをやってみたことがあったから、運転にはそれなりに自信があったのだが、試験場では勝手が違った。  「乗りやすい」と周囲では言われていたヤマハのFZX750も、ホンダのVFR750Kも、自分にはひどく乗りづらかったのだ。(相性が悪かったのだろう)  逆に、ハズレと...