1990年 カワサキ ゼファー


 3月に高校を卒業してしばらくして、ちょっとした旅に出た。
 少しだけ、生まれた街から離れてみたくなったのだ。
 多少だが、高校時代にアルバイトでため込んだ金も持っている。
 急に湘南の海を見たくなった。
 今までも何度も国道134号線を走ったが、決まって夜中だったから、日中に走るのは初めてだった。
 手に入れたばかりのカワサキのゼファーは、厳密にいえば2型となる1990年モデル。
 慣らし運転もそこそこに、新しいSHOEIのVXというオンオフ兼用の黒いヘルメットを被り、適当な着替えとタオルだけを入れたバッグをリアシートに括り付けて走った。
 黒い革ジャンと、買ったばかりの真っ青なLeeライダース101に、編み上げブーツ。
 何度も走ったはずのR134も、これまでとはまるで違って見えた。
 かつて一緒に走った仲間とは、二度と一緒に走る事は叶わない。
 絶たれた絆、変わっていく日々。
 これまでの苛立ちも、焦りも、まるで他人事のよう感じられた。
 人、物、場所、何もかもが変わっていく・・・。

 早春の湘南は、肌寒かった。
 小田原から箱根方面には向かわず、伊豆半島を一周しようと思った。
 真鶴、熱海、伊東、伊豆高原、稲取、もっと南へ行こうと思っていたのだけれど、日が傾き始めた頃になって、急にどうでも良くなって、ついには目的を見失ってしまった。
 左側に海が見えるというだけで、別にどうということはない。
 「旅に出よう」だなんて、大仰なことを言ってみたかっただけで、行きたいところなんて、そもそも存在してさえいない・・・。

 河津あたりでUターンし、夜になる頃には真鶴を抜けて小田原へ、そこから厚木に向かった頃には、何処かに泊まることなどすっかり頭から抜け落ちていて、国道246号沿いにあった見慣れたオレンジ色の看板の24時間営業のファミレスに入った。
 コーヒーとクラブハウスサンドを注文し、夜の海を流れる車のライトの軌跡をただぼんやりと眺めると、行先も決めずに旅に出るつもりだった自分がひどく可笑しく思えてきた。
 当時、兄と二人暮らしをしていたマンションの部屋へ、朝になる前に戻った。
 丸一日で戻ってしまった「旅」だった。

 心にぽっかりと空いてしまった穴を塞ぐことも出来ず、大学進学までのわずかな時間を、何をするでもなくただ浪費した。
 高校でやり残したことはたくさんあったが、もう何もすることが出来なかった。
 あっという間に4月となり、大学に通うのに片道2時間以上も掛かることに辟易としはじめた。
 気が向けばゼファーで大学まで行ったが、それでも日中なら1時間半以上は掛かった。

 大学では最初、バイクのサークルに入ったが、レーサーレプリカで峠を尋常じゃないスピードで走る、当時流行っていた峠族丸出しのそのサークルの方向性には違和感があった。
 そして、若さゆえの無茶が祟り、休日に企画された「ツーリング」とは名ばかりのスピードレース中に、峠のコーナー手前でのブレーキングの最中に、道路にぼっかりと空いた穴に前輪を突っ込ませてしまい、その衝撃でバイクごと宙を舞い、そのままコーナーの壁に激突した。
 穴にはまった衝撃で、メーターにシールドから突っ込んだ。
 当然、シールドは割れたが、その後、ゼファーから放り投げられて壁に右肩から激突。
 数秒ほど、息をすることができずにいて、そのまま呻いた。
 ゼファーがどうなったのかは分からない。
 どうやってそうなったのかも理解不能だったが、壁際で仰向けに横たわっていた。
 どうやら、死なずには済んだようだ。
 後から来たサークルの先輩が、仰天した様子で駆け寄ってきた。
 とりあえず、起き上がってバイクのありかを探した。
 見事にひっくり返っていたゼファーは、滅茶苦茶に壊れているようにも見えた。
 とりあえず、引き起こしてみると、ハンドルがあらぬ方向を向いていた。
 ヘッドライトは割れ、ウィンカーはステーの根元から折れてぶら下がり、左のギアペダルがひどく曲がっていたが、折れずについていた。
 右のブレーキレバーは根元から折れていた。
 無事だったのは、左のクラッチレバーと、右のブレーキベダルだった。
 左右のバックミラーはひん曲がっていたものの、割れずについていた。
 すると、急に吐き気を催して、盛大にその場で吐いた。
 右側の感覚がおかしくなり始め、電球が切れたかのように急に右目が見えなくなった。
 サークルのメンバーがもう数人が止まっていたが、誰だか名前も知らないヤツが、「こいつ、このまま死んじまうんじゃないのか?」とえらく物騒なことを口にする。
 その言葉に恐怖を感じたものの、しばらく座っていると、だんだん感覚は戻ってきた。
 救急車を呼ぶような外傷がなかったのと、しばらくするとエンジンが掛かったことから、サークルのツーリングはリタイアして、これから自宅に戻ることを伝えて分かれた。
 心配していても、「あくまでも自己責任な!」といわんばかりで、この時代はサークル活動であるにも拘らず、相当にいい加減なものだ。
 帰路はどうやって戻ったのか、あまり覚えていないのだが、多分中央道のどこかのインターチェンジから乗り、法定速度を守ってなんとか高井戸辺りで降りて、環七を通って馴染みのバイク屋にそのまま入庫したように思う。
 ヘルメットの右後部は削れていた上にパックリと割れていた。
 皮ツナギを着ていたとはいえ、一歩間違えればあの世行きだった。
 あの時着ていた冬物のジャンパーの右肩あたりには、盛大な磨耗痕が残った。

 CBR250Rならまだしも、ゼファーは峠をハイスピードで駆け抜けるようなオートバイではない。
 そもそもレースをしたいわけでもないので、このサークルはその後すぐに辞めてしまった。

 そんな折、中学校時代の同級生のGが、実はバイクに乗っていることを知り、一緒に走ろうと言うことになった。
 幼馴染が同じバイク乗り、うれしい話だった。
 すると、同じ中学の同級生でもう一人、Tがバイクに乗っているというではないか?
 しかもイタリアのドゥカティに乗っているらしい。
 ここで、このときの状況を説明しなければならないと思う。
 高校を卒業する前辺りから、これまで中型自動二輪免許を取得して、250ccなり400ccなりを転がしていた(そんなに仲の良くなかった)中学の同級生たちは、みな車に興味が移り、バイクを降りてしまっていた。
 バイクを降りたヤツは、決まって同じ台詞を吐いた。
「まだバイクなんか乗ってんのかよ?」と。
 だから、それでもバイクに乗っていること自体が、特別なことだった。
 車の免許を持っていて、車に乗っていても、あえてバイクに乗ることが特別なことだった。
 俺はバイク乗りだ!と主張することに、意義があったといってもいい。
 そんな仲間たちと、出会った。

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