限定解除

 件のゼファーには、相当の大金を掛けた。
 速くしたかったのと、自分だけのオリジナルの仕様にしたかったからだ。
 大学の長期休みの度、レストランや居酒屋、車のワックスコーティングやガソリンスタンドでのアルバイトに明け暮れ、バイト代が入ると、マフラーやらカムシャフトやらキャブレターやら、タイヤやら、ブレーキやらを交換していじり倒す。
 最初にやったことと言えば、転倒した際に頭突きしてブチ割ってしまったメーター類を、出たばかりの91年式3型から採用された砲弾型メーターに取り替えたことだった。
 ゼファーは憧れていたZ系の末裔だったから、その姿に少しでも近づけたかったのかもしれない。
 空冷並列4気筒の2バルブエンジンは、レスポンスが悪く、回転が上がるのが若干かったるかったけれども、いい音がした。
 しかし、400ccをいくらチューニングしても大排気量のオートバイと同じにはならなかった。

 また、ゼファーに乗っている間、不運としか言いようがないが何度も事故に遭っていた。
 覚えているだけで最初の峠の単独事故から数えても、3回は大きな事故に遭った。
 業を煮やした親から、ついにバイクを売却するよう命令され、10代の青春のすべてを費やしたといっても過言ではなかったゼファーを、2年足らずで手放すこととなってしまった。
 一時期バイクに乗れなかった時期があった。
 事故に遭うのは不運でしかないが、親に対して自身のライディングテクニックに問題がないことを何とか証明したかった。
 そのために何が必要なのかを考えると、やはり限定解除をする必要があった。
 そして、ナナハンにも乗りたい。
 馴染みのバイク屋の店内には、乗ってみたい大型のオートバイがゴロゴロしていた。
 中には、20年以上前(1991年当時)の旧車もある。
 当時の大型オートバイを乗るための免許証を取得する方法は、警察の免許試験場で受ける『限定解除』しか手段がなかった。
 大学2年になってから、本格的に府中の試験場通いが始まった。


 高校生の頃に、暇つぶしにジムカーナをやってみたことがあったから、運転にはそれなりに自信があったのだが、試験場では勝手が違った。
 「乗りやすい」と周囲では言われていたヤマハのFZX750も、ホンダのVFR750Kも、自分にはひどく乗りづらかったのだ。(相性が悪かったのだろう)
 逆に、ハズレと言われていたスズキのGSX750E4の方がよほど相性がよかったことは、最終的に合格した際に乗っていたのがGSX750E4だったことが証明していた。
 5回目くらいに、自己流ではなく限定解除するための練習をする必要に迫られ、かつて大泉にあった都民自動車教習所に通うようになった。
 教習車だったCB750Fの操作性に驚かされた。
 ひとしきり練習の成果が出るようになってから、途端に試験場での運転がやりやすくなったのだが、それでも試験では不合格を出された。

 それなりに運転に自信があることが、何となく試験官に見抜かれていたようにも思う。
 不思議だったのが『完走すれば合格』とされていたにも拘らず、2度完走したにも拘らず不合格にされたことだった。
 3度目の完走で、「もう合格でいいでしょう」と言われた際は、正直に言えば素直に喜べなかった。
 無料じゃない試験代を、何度も徴収されたことに納得がいかなかったのだ。
 もはやうろ覚えだが、10回以上は試験を受けたように思う。
 とはいえ晴れて限定解除となり、しばらくぶりに手に入れることになったオートバイはとんでもないスペックのレーサーレプリカだった。
 スズキ GSX-R750Ⅱ型
 当時の耐久レーサーがそのままストリートに出てきたかと思わせるようないかつい風貌のレーサーレプリカだった。
 勿論、型落ちの中古車ではあったが、このマシンはSPレース用に特別にモリワキレーシングでチューニングされたレース用のマシンで、ワンオフの特別なフォーサイトマフラーが組まれ、実際べらぼうに速かった。
 しかし、このGSX-R750にはそれほど長く乗ることも出来ず、すぐに手放すこととなる。
 椎間板ヘルニアによる重度の坐骨神経痛を患い、乗ることが出来なくなったのだ。 
 スズキGT750やカワサキ750SS、500SS等の2ストローク3気筒にも乗り、その独特すぎる個性には大いに魅せられたが、運命のような出会いがあり、憧れていたカワサキ750RS(通称ゼッツー)を運よく引き継いで乗ることとなった。 

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